Flocken / Flocking / フロッキング ~居場所のない社会
スウェーデンの田舎町、学校と食肉の加工工場を中心とした小さなコミュニティが舞台。そこで同級生にレイプされたと訴えた14歳の女の子とその家族が、コミュニティから迫害されていく。加害者の男の子の家族は、工場で幅を利かせている男の兄が父親で、教会の合唱団に参加していろいろ取り仕切るのが好きな母親。一方、女の子は母子家庭。被害者加害者という立場に関係なくその構造の力が働いていく。題名の意味は「群れ」。上映後のQ&Aでアレ・キノ映画祭(ポーランドの子ども・若者向け映画祭)ディレクターのイェジ・モシュコヴィッチさんが「加害者の動機よりも社会がどうしてこういう行動をとったのかの方を考える」ということを話していて、題材はそっちなんだとわかった。クリステン・スチュワート主演の『Speak』が主人公の心の回復を描いていたのに対して、この作品はそういう意味での救いはなかったかな。ただ、想像していたヨーロッパの映画でよく見る暗いエンディングじゃなかったのは、少し助かった。女の子の母親は「信じてるから大丈夫」っていう態度で、それで女の子は救われた部分もあったと思うけど(あとホースセラピー)、だんだんと阻害されて、恋人が離れていってしまったら母親はもう母親でいられなくなってしまった。女の子をつなぎとめていたものがどんどん奪われて、この閉塞的な町でどう生きてく希望を持てるのか。
男の子の母親は過保護で(男の子がパンを食べてるときゅうりを切って無言で乗せる)、これはただの喧嘩でハグをしたら仲直りって終わらせようとしたり、本人の言い分を聞かずに彼は無実だという運動をしたりする。反対に父親は放任で、男の子が何か訴えるようにしていても、話を聞いてくれずに、たったひとこと言ったのは「なんであの子にしたんだ」ってだけ。そんな環境で、ひとりで何も言えずにいる男の子の様子が映されるから、なんだかこの子もかわいそうに思えてきた。レイプのニュースを見ると、絶対的に加害者が悪いって思うんだけど、この映画ではもちろん被害者に悪いことは1つもないし、苦しい状況が描かれているんだけど、この男の子の環境はこの子の成長のためによくないって思った。男の子が「自分がやった」って打ち明けても、母親はそれを受け止めずに、流してしまう。もし、ここでぶつかってやれば、この子は変わることができたかもしれない。でも、加害者側の立場が強いって環境では、こうやって事がなかったことにされて、子どもが成長する機会も得られないんだと思った。閉鎖的な社会、男社会であったら、レイプに限らずこういう問題は起こる。イェジ・モシュコヴィッチさんが言っていたように、これは普遍的な問題で、現代社会で共通の問題でもある。だからこそ、若い世代に観て、考えてもらいたいと映画祭を企画しているとイェジ・モシュコヴィッチさんは話していて、いいなと思った。
第29回東京国際映画祭2016
ユース TIFFティーンズ
フロッキング
監督:ベアータ・ゴーデーレル
http://2016.tiff-jp.net/ja/lineup/works.php?id=235
Ale Kino! International Young Audience Film Festival
http://www.alekino.com/
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